フォトアトリエ臥遊
モノクローム写真工房

100年前のプリント(6×9サイズ)が夢を語ります。





フィルム写真とは


デジタルとフィルム写真を同じ「写真」として扱う傾向は写真関連事業の発展につなげる経済優先の考えから、異論をはさむ余地はほとんどないまま、現在に至っています。
しかし、写真以外の一般的な価値のあるとされる作品は、そのプロセスこそが重要な要素であり、「…らしく見える」ものは偽物とされることがほとんどです。
悲しいことに「写真」においては、歩きながらスマホをかざし、インスタ映えさせたデジタル写真と、それの何十倍の時間と労力、そして全てが一回限りのフィルム写真とを同じものとして取り扱われます。

シャッターを押し、光をフィルムの代わりに光素子が受けるまでが似ているだけで、それ以降は全く違うプロセスです。
フィルム写真の場合、プリント作業は撮影作業に増してクリエイティブな工程です。
なぜならプリント作業は印画紙上に織りなす銀の美しさを演出できる唯一の工程だからです。
デジカメやパソコンでは標本化、量子化、符号化という一連のデジタル変換を経て写真画像が作られます。
言い換えれば、デジタル写真はロボットの脳が格子状に切り刻んだデータを数値化し、再構築したものです。
これに対してフィルム写真のネガやプリントは光に反応した無数の銀の原子の結晶が現像液によって金属の銀に化学的に転換する、至ってシンプルな原理で作られます。フィルム写真は印画紙上の銀に遺された光の痕跡だけでできています。
撮影からプリントまでを人と鉱物の銀が創る不可逆的で、偶然性に富んだプロセス、それがフィルム写真の神髄です。

フィルム写真への誤解


勿論、フィルム写真と一言で言ってもフィルム写真の解釈はまちまちです。
フィルム写真の全盛時のサービス判といわれる自動機で機械焼きされる同時プリントはプリント作業の前段階のコンタクトプリントを2Lサイズにしたものです。同時プリントによるサービス判の普及はフィルム写真の芸術性を損なう結果を招きました。
サービス判を基準にフィルム写真を判断すれば、ストレートプリントとして同じプリントを何枚でもコピーできます。
しかし実際にはストレートプリントで終わることはほとんどありません。
その後に大切なプリント作業が控えていて、何度も焼き直し、唯一無二のプリントが出来上がります。
本物のプリントは現像データを正確に残しても、同一のプリントはできないと言っても過言ではありません。
フィルム、現像液、印画紙、現像プロセス、温度、液のコンディション、焼きのテクニック、諧調…。
多くの要素が絡み合い、偶然性を含んだ一枚のプリントが出来上がります。
ストレートプリントは確実性から生まれます。これをフィルム写真として解釈すると様々な誤解が生まれます。
「デジタルでも十分、あるいはそれ以上のフィルムライクな写真ができる」とか「私は被写体によってデジタル、フィルムを使い分けています」とか「解像度やコストでは最早フィルムを使う余地がない」とか挙げればキリがありません。


プリントを飾る


外国では絵や写真を部屋に飾られていることはよく目にする光景です。しかし日本では写真を飾る文化はないという話をよく耳にします。
日本では明かりは障子越しに採光され、絵は襖や屏風に描かれ、床の間には掛け軸が飾られました。
西欧化された住居で、それらは忘れ去られ視線はテレビに集められました。
日々、情報は脳を通過して、それを問い直す力を失っていきます。
スマホやパソコンも同じように、そこに留まらず通過していく情報です。

いつも同じ場所にあって、動かないことは実は大きな意味があります。
そこにあり続ける存在は有限の生命体にとって不死への期待であり、さらには問い続けられれる対象でもあるのです。
壁に飾られた写真を見ていると、その額が異界への窓として私たちを誘うように感じたことはないでしょうか。
小さくなっていた自分の世界から開かれた世界に旅立てるのです。