フォトアトリエ臥遊
臥遊とは








臥遊とは

「臥遊」とは紀元3世紀に宗炳が確立した山水画の基礎となる言葉です。
紀元前の中国では、山は神が宿る神聖な場所とされていました。
都市の喧噪を逃れ、一日中、山で過ごすことは神に近づく行為でした。
「臥して以って之に遊ばん」とは年老いた宗炳がかつて登った山を描いて
床に臥しながらその絵を眺め、山で過ごした時と同じ境地になることでした。
自然を銀の濃淡(グラデーション)で写真を製作する私達の活動は
「臥遊」と通じることから工房の名前としました。

フィルム写真とは

重い三脚とカメラをザックに入れて山道を登っていくと、先に何やら輝いている。
なんとそれはガードレールで、舗装された立派な林道であった。
誰も住んでいない山奥に税金による環境破壊は、気がつかない内に人の心も蝕む。
車で乗り付け、スマホをかざせば間違いなくもっと良い写真が撮れる。
なぜならスマホのAIカメラはどのような条件下でもベストショットをその場で提供してくれる。
その内、誰も来ないような場所で三脚を立てていると周りにドローンがいっぱいという光景も
これも間違いなく現実になるだろう。とても敵わない!
銀でできていようが、インクでできていようが問題は仕上がった作品が良ければ
それが価値ある作品とされる。
デジタルでもアナログでもプロセスが違うだけで、作者が選べば良い。
本当にそうだろうか?長い間の疑問でした。
私達人間はこの両者が全く別物であることを認識しておかなければならない。
そもそもカメラメーカーは商品を売り続けるために、デジタルカメラをフィルムカメラに似せて作りました。
その結果皮肉にも、多くのメーカーが倒産し、残ったメーカーも苦境に立たされています。
私達は様々な技術革新で古いものより新しいものは優れていると刷り込まれていて、
この固定概念は長く培われた文化を一瞬にして陳腐化してしまう。
本来フィルム写真とは撮影から現像まですべてのプロセスを
人間が思考しながら造り出す芸術であることを忘れてはいけない。


プリントを飾る

外国では絵と同じように写真を部屋に飾られていることはよく目にする光景です。
日本では明かりは障子越しに採光され、絵は襖や屏風に描かれ、床の間には掛け軸が飾られました。
しかし西欧化された住居で、それらは忘れ去られ視線はテレビに集められました。
日々、情報は脳を通過して、それを問い直す力を失っていきます。
今ではスマホやパソコンも同じように、そこに留まらず通過していく情報ばかりです。
いつも同じ場所にあって、動かないことは実は大きな意味があります。
医学的に言えば副交感神経を優位にさせる作用があります
瞑想や座禅やマインドフルネスなどと同様に、心が今ここに在ることの大切さを教えてくれます。